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2008年04月03日

律令制の祖形

この形式はどのように発展していったのでしょうか

律令制の祖形は、古く秦・漢期まで遡るともいわれているが、厳密に言えば、律令制は中国の魏晋南北朝時代において出現し、徐々に形成されていった。後漢末期から戦乱の時代が長く続き、中国の社会は混乱を極め、ほとんど崩壊に至っていた。こうした社会の再建のため、魏に続く諸王朝は、王土王民の理念による統治を指向するようになったのである。

魏は、戦乱によって耕作者がいなくなった田地を人民に支給して軍糧を徴収する屯田制と、兵役義務を持つのは兵戸であり他の一般戸と区別する兵戸制を採用していた。また、税制としては、土地面積ごとに一定額の田租を賦課する定額田租と、戸ごとに物納を課する戸調を行っていた。これらの制度は、その後の諸王朝も継承してゆき、律令制の基礎を形成することとなった。

魏の次の西晋は、土地制度は占田・課田制を新たに布き、兵制・税制は前代の兵戸制・戸調制を概ね継承した。西晋の268年には泰始律令が制定され、これが最初の律令法典だとされている。

その後の五胡十六国時代を経て、中国北部を統一して北朝最初の王朝となった北魏は、律令制の形成に大きく貢献した。北魏はまず、人民を体系的に支配するために三長制という地方行政制度を実施した。これにより、租税の徴収や戸籍の作成を一律的に行うことができるようになった。第6代皇帝の孝文帝は、三長制の成果を前提として、均田制と均賦制を実施した。これは、一律に耕作地を支給し一律の基準で徴税を行うというもので、これにより律令制の基礎形成が完了したとされている。なお、均賦制は夫婦に対して課税することとしていたため、課税単位の中心が戸単位から夫婦単位へと移行した。北魏の次の西魏では、兵戸制に代わって府兵制という兵農一致を原則とする新たな兵制が生まれ、その次の北周は、儒教教典の周礼に基づいて三省六部の官制を整備し、租庸調と呼ばれる税制を開始した。その後の北朝の諸王朝もまた、これらの制度を継承した。律令制の形成は北朝を主舞台としていたのである。北朝はこれらの制度を背景に国力を増強していき、次第に南朝を圧迫していった。

589年、隋は約270年ぶりに中国統一を果たした。中国統一に先立つ581年に隋の文帝は開皇律令を制定しているが、非常に体系的な内容を有しており、これにより律令制が完成したとされている。律では、残虐な刑罰が廃止され、判りやすい内容へ簡素化されている。官制も整備され三省六部や御史台が置かれ、官僚の登用に当たっては、幅広く門戸を開く科挙を始めた。また均田制に於いて給付と課税の対象がそれまでの夫婦単位から男性個人単位(丁・中男)へと移行している。これは、統一が為されたことにより給付対象が大幅に増え、そのことから来る土地不足が原因と思われる。

唐は、隋の律令制をほぼそのまま継承した。律令制により国力の充実した唐は大帝国を築き上げ、東アジア諸国へ大きな影響を与えた。その結果、東アジアの各国とも国力整備のために、唐の律令制を受容・摂取するようになった。律令制を導入したのは、日本・新羅・渤海・吐谷渾・吐蕃などが知られている。これらの中には、必ずしも律令を制定していない国もあるが、いずれも唐律令の諸制度を多かれ少なかれ採用している。

引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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